──まずはじめに、美術を選ばれたきっかけをお聞かせ下さい。何かを表現したかったんです。ですからはじめは油絵でも何でもよかったんです。高校の授業の芸術選択で第二希望で提出した美術を選択することになったのですが、その授業が面白かったんです。武蔵野美術大学の彫刻科卒の岐部琢美先生の指導を受けました。先生の授業はお手本や答えのない、まるで混沌とした人生でも語るかのような授業でした。でも、2年生になると芸術の授業がなくなってしまって・・・。運動部だったんですが、どうしても絵が描きたくて2年生から美術部に入りました。当時私は、木炭デッサンが好きで、その先生に「彫刻が向いていそうだけど、お前みたいなタイプが日本画を描いたら面白いんじゃないかと思うよ」と言われていました。その時はじめて、『日本画』という聞き慣れない言葉を耳にしました。 |
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──日本画とはどういうものだと思われていたのでしょうか?日本画は正座して描くもの。日本史の資料集に載っている作品のように、金屏風ばかりだと思っていましたからね(笑)。 ちょうどその頃、東京の美大予備校の通信教育コースを受講していまして、短期の夏期顔合わせ会みたいな講習会があり、地方在住の高校生達を美術館に案内してくれたんですよ。そこで福田平八郎と徳岡神泉の絵を見ました。すごくいい絵で、キャプションを見ると、技法は岩絵の具とか書いてありました。それが日本画との初めての出会いでした。ですから、本格的に日本画を勉強しようと思ったのは、高校3年の夏からなんです。その後予備校に通い受難の道が始まりました・・・私は三浪したんです。 |
たゆみ/2005年 |
──芸大を目指されていたのでしょうか。ええ。でも私自身に問題があったんですね。緊張しちゃうんです。それに予備校に行き始めると、入試のための知識が入るでしょ?そうすると、自分自身がどうしたいのか、ストレートにものが見えなくなってしまってね。その時期が長かったですね。でもそれが逆に、何でもこなせると思いこんでいた鼻をへし折ってくれて。今はその三浪の経験が宝です。あの三浪がなかったら今の自分はなかったと思いますね。 |
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──それで多摩美術大学へ入学されて。漠然とお嫁さんとお母さんになるのが夢だったりして、最初から絵描きになれるなんてまったく思ってもいなかったです。大学の3年の時に、芝居の裏方を手伝だっていました。課題はきっちりとこなしていましたが、「作品表現になっていない」と自分で分かるだけに、絵を描くのは向いていないと思っていたんです。 それで舞台衣装のデザインと作成を試してみました。型紙から作って仮縫いもしたり。予算内で演出依頼の意図を汲んだデザイン通りの衣装をこなす事はできたんですけど、終わった後に楽しくなかったんですよ。充実感がないの。それで絵にもう一回戻ろうと、それでだめならやめればいいやぐらいに思って、そうしたら面白くなってきて「大学院に行く道もあるな。公募展にも出してみようか」という感じになってきました。 それともう一つ決定的だったのは、研究室の先生に「お前は三浪だから(求人は二浪までしかない)普通は、就職口がないけれど一つだけ研究室から推薦すれば受けられる。お前は真面目だ。けれど一生懸命にやったって、たいていは何ができるわけじゃないんだ。絵は趣味にして、就職した方がきっと幸せになれるよ。就職する気があるなら推薦してあげるから」と言ってくださったんです。 今のうちだったらまだ間に合う、という先生の仏心だったのでしょうね。 でも「あとで後悔するのはイヤだ」と言って断ったんです。やっぱりどうしても絵を描きたかったのね。満足いく絵が描きたかった。それで本当に今みたいな形になってしまったんですよ。 |
水・たゆみ/2004年 |
──若い内の選択はある意味無謀かもしれませんけれどね。私の作品を見て、誰も何も思わないかもしれないけれど、もしかして一生続けたら、誰かが見てくれるかもしれない。目に映るものを、単純に絵日記みたいにして、それに例えば洛中洛外図屏風のように俯瞰で構成できる面白さを、自分の視線で日常生活に取り入れることができたら、生活と制作が密着した作品になるのではないかと思ったんです。 |
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──昨今美術は最先端という言葉が持て囃されて、生活と制作が密着した作品というのは、余り顧みられてはいませんね。発展法則的に美術を捉えるならば先端がここにあって、皆次に何かしなければいけないと思っているのかもしれない。でも次に何かしなくてはならないと思わなくてもできる人はできる。今はメディアが多様化してるから、メディアの不確実さを知りながらも、最先端がメディア先行になる傾向があるように思うのです。一方では、地道な制作を評価する目もあると思うんですけど、それには派手さがないから本当に地に足をつけての制作になると思います。 以前ある彫刻家の講演で「美大で学んでいると、最先端にいたがるだろう。僕はその先端がすごく考え辛かった。僕には向いていない。だから僕は、時代や歴史を振り向いたら線ではなくて、敷石がつながってこうなってきた、と考えるようにした。敷石の間にすき間があるかもしれない。でもそこに自分が石を置いたっていいんじゃないか。そう思ったら楽になったんだよ」と言われて、いいこというなあと思いました。私は最初から絵日記を描いているから、それが先端になるとは自分では思っていません。でも何人かが共感してくれればそれでいい。彼の話を聞いた時に、「私はこれでいいんだ」と思いました。 |
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──私は絵というのは、その人の世界の見方だと思うんです。100人いたら100通りの見方がある。だから絵をカテゴリー化したり、一つの記号としてとらえたら、それは見方ではなくなってしまう。形式や手段や方法でもなく、見方そのもの。例えば、今まで横だったモノを縦にした一人がいるとして、見る側には彼個人の意識を素通りする人もいれば、共感する人もいる。ひょっとすると、個人の意識や感覚によって多くの人の価値観をひっくり返す事だってできるかもしれない。もっと流動的に、視点を俯瞰して、多義的な見方を提示すればダイナミズムが生まれ、描く側も見る側もいろいろな文脈が見えて、そこにコミュニケーションが生まれると思うんですよね。はい、そう思います。絵が好きだと思ったのも、「コミュニケーションがとれる」と思ったからなんです。私が以前講演をしたときに、例えば文学者でなくても、詩を書いたり、文章を書いたりされる方は多いですよね。それと同じように、私が絵を描くことは、日常ではできない何かの穴埋めを絵でしているのかもしれません」といったことがあるんです。皆さん、その言葉にすごく反応してくださって、お手紙をくださる方とか、「自分もそう思う」と言ってくださった方がいたんです。 例えばこうやって話しているのもコミュニケーションなんだけれども、それ以外のコミュニケーションも十分とれる。それこそ言葉が通じなくても分かるという単純な話があるじゃないですか。実際に私も、福田平八郎の絵や徳岡神泉の絵を見た時にもそう思ったし、今現在挿画を描いているんですけど、過去に挿画を描いていた方々の作品を見ると、もう亡くなった方々なんだけれども、とても楽しい。形が残るものでコミュニケーションがとれるということは、いいことだなって思うんですよ。 |
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──それは「形」に、リアリティーを感じるからではないですか。見ている視線の位置がわかるというか。そういう意味で北村さんの作品にはリアリティーを感じます。作りごとができない・・・まぁ理屈では描けないんですよ。水の作品も、まずはスケッチしているんです。 |
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──水の作品はかなり前から描かれているのですか。80年代中頃からです。当時住んでいたアパートの近くに、武蔵野の風情を残した公園がありまして、善福寺池という大きな池があったんです。手の加わってない池の水の表情が好きなんです。それとプールが好きです。学校のプールもリゾート地のプールも、気持ちがふわっとするっていうか・・・好きなんです。 |
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──「ガンバル」は、水に飛び込む瞬間ですね。はい。この白い線の描き方が先生には面白かったみたいです。ビニール袋の先をチョキンと切って、モデリングペーストをケーキのデコレーションの時の生クリーム方式で絞り出して描いた線なんです。今でも先生には、この作品のことを言われます。 80年代後半は、アルバムには入っていないのですけれど、かなり水に挑戦しています。写真から起こして描くことは、多くの人たちがされていることだし、私はしたくない。私自身が感じたことから始めたいので、観察するしかないなと思ったんです。その観察を続けているわけでして・・・。 |
ガンバル/1986年 |
──大学院のころからの作品を拝見すると、かなり光と影を意識してますよね。木漏れ陽とか、キラキラとうつろい光る光景は、水の作品との共通項として現れていますね。ユラユラ揺らめく実体のないものを描いてます。画面の中の世界だけでなく、外の世界と通じているように描きたかったんです。イメージが広がっていくような、いろいろなものを想像してもらえるように描きたかった。それが影を描き始めたきっかけなんです。若いときに考えたことだから、今話すと恥ずかしいんですけれどね。 |
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──木漏れ陽がきらきらと揺れているのを見ていると、幸せを感じますね。印象としては、稚拙かもしれませんけれど。とりあえずその時は、その稚拙さを越えたいと思っていたんです(笑)。 |
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──でも影があって光があって、そこに世界が表出している。「影を描くだけで絵になるのか」と思っていましたから勉強になりましたね。日本画だからできる絵具の偶然性もあるじゃないですか。そういう部分がすごく使えるんです。私は自分のテーマとして、「現実にあるものしか描かない」と決めていましたので、現実にあるものと、実体のないものの折り合いをつけることは、大きい作品を描く場合にとても重宝なんです。岩絵の具と膠と水と重力でできるものの偶然性にゆだねることは、自分の気持ちと折り合いがつくんですよ。 |
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──ただ人物がいるのといないのとではかなり違いますね。人物がいた方が、人の目線がそこにいくから、動きがでるような気がするけれども・・・。そのころは、人を描いた方が、流行歌の歌詞みたいなイメージで見えるんじゃないかと思っていたんです。だから水だけを描いてみたいというのが、ずっと夢だったんですよ。小さい頃から粘土遊びにせよ絵にせよ、液体をリアルに表現したいと思う傾向があったようなんです。保育園の頃の粘土細工遊びでも、もっぱらオムレツの上にかけるケチャップの表現を得意としていたり(笑)、絵日記に蛇口から出ている水に「水色」を使わ なかったりしてました。「巨人の星」で涙の表現はどう描いているのかが気になってましたから(笑)。 しかし、背景の屈折や色を見えたまんまに写し取ると水色にこだわらなくても水には見えるんだとわかってくると面白くなりました。そんな時に福田平八郎に出会い、尾形光琳の「紅白梅図」を知りました。光琳の水は文様で、文様としては古来からあるのでしょうけれど、その前には必ず観察があったはずです。水面に写った枝を見れば、昔の人はよく観察しているのが分かります。私の観察によって「自分の水の形」に出会いたいのです。つかめたら嬉しい。まぁそんなんであがいているんですけどね(笑)。 |
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──観察することは、ものの本質を捉えることかもしれませんね。今私がやっているのは間違いなく絵画だと思っています。私は空想も創造もできないけど、等身大の気持で物をみて描けるから、自分自身に「日記を描いているんだ」と言いきかせてきたんです。でも、水が描きたかった私の気持ちを正直に言えるようになりました。今まで「水が描きたいんです」と言うことをなかなか言いだせなかったんです。7年ぐらい前(1999年頃)に、「あなたと水はどういう関係があるの」と聞かれたときに、うまく答えられず、家の近くに川があった・・・なんて、「ホントにそうなの?」と突っ込みたくなるような答え方しかできなかったんです。物を写しとることが好きな私が形を創ってもいいのではないか、と思えるのが、水だったり影だったりするんです。創るといっても、本当にフリーハンドで創るのではなく、観察しているといい形が体に入ってくる。下図を木炭で描いていて、最終的には簡単な線にしたいだけなんだけれども、その線を創るために、長い時間をかけてデッサンをしてるんです。こういうことができるのも、写し取ることが好きな私がやるからできるんだと思うんですよ。 それと単純化するまでの過程が好きです。それは「風が渡る」(98年制作)という作品で、その構造を見つけてからなんです。91年の「真夏日ー青空のプリズム」92年の「真夏日ーpool」などの作品は、偶然性を狙ってしか描いていなかったと思うんですけどね。偶然性を追及していくことは、おもしろいけれども、どうしても独自の形を作りたくなってきた。93年の頃は以前の作品の焼き直しになってしまって、面白くなくなって、一旦水を描くのはやめているんです。 95年の「枯葉」を描いた頃は、偶然性を狙うのではなく、埋め尽くす仕事をしています。形を写し取ることが好きと言っている私が、全部形で埋め尽くせるのかという挑戦をしてみたんです。 この作品は、戸村美術に展示した作品なんですけれど、この時は日常をテーマにしながら、たくさん展示しすぎたために、戸村さんから「こんなにがんばらなくていいから、今度はテーマを一つ決めてごらん」と言われました(笑)。 |
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──拝見していると、「描きたい」という気持ちが伝わってきますね。偶然性を狙うよりも、写しとらなかったら、自分の力にはならない。画家は生き方だから、たった一歩のことでも、遠回りしてでも行く一歩の方が、力強くなるんじゃないかと。むしろ描くものの方に、偶然を引き寄せて、一致できてくればいいなと思っています。それに水に対しては、自分の体の中に入れようと思っているんです。たとえば最近のこの作品は、2点組みなんですけれども、’04の「たゆみ」はかなりギチギチに描いているんですけれど、’05の「さざめく」は、大下図を写しとって骨描きをして、薄く胡粉を引いて、淡々と升目にあわせて、色を置いていっただけなんです。この対比が面白いと思っています。 |
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──水自体は自分の体内にも入っているものだから、体が水を呼ぶだろうし、元々人間は、羊水の中から生まれてきたわけだから、そういう意味合で、自分の根源をたどるということでしょうね。水はいろいろなものになるから、解釈も自由だし、水面を描いても、水底を描いても、そのつどそのつど、色んなことを教えてくれる。以前だったら、骨描きを残すなんてことはしないで、この上からまた色をかけたりしていたんですけど、最近は、大下図で本当に苦労しているから、仕上げはさっぱりと、俳句のような感じでいいじゃないかなと。すごい遠回りだけれども、これからも色んなことしなくてはいけないと思っています。 |
Interview
─ 2006年4月/質問者◎小市裕子さん