昨日、山本さんの訃報を聞き、言葉もありませんでした。
一昨年の夏から体調不良でしばらく連載は一本にしぼってらっしゃいました。 映画『利休にたずねよ』が話題になり、山本さんも忙しくしてらして、昨年3 月の試写会では、薬の副作用で吹き出物はあったけど、立ち姿も声も出てくる オーラも以前と変わらず、夕方からは私の画家仲間と3人でワインを飲んで、 次回作の話で盛り上がりました。秋には担当している『とびきりや見立て帖』 シリーズも再開して、そろそろ次の原稿が届くなぁ〜と思っていた矢先、電話 で悲しいお知らせを知りました・・・。
山本兼一さんとは1998年に、『奇天烈な店』(村松友視著)の挿絵の取材で訪 れていた寿司屋の親方を通じて知り会いました。名刺交換をして以来4年間、 ほとんどの個展をみてくれました。東京、京都、藤枝と、地域はいろいろでした。 私の事を忘れないでいてくださり、4年後の2002年に『白鷹伝』を発行する時に 声をかけていただいたのです。それが元となって今に繋がっていると言っても過言 ではありません。2004年に『火天の城』で松本清張賞を受賞し、山本さんの 作家生活の濃度が加速していったのでした。
2005年には『いっしん虎徹』の連載が、翌2006年に『利休にたずねよ』の連載 が始まりました。歴史小説の挿絵は時代考証など沢山調べないと描けないのですが、 これらが、私と時代小説との関わりの始まりです。 同じ年に新聞小説『命もいらず名もいらず』に声をかけて頂き、下手くそながら必 死でついていきました。 2002年の『白鷹伝』の表紙絵は、“描き下ろし”なのと、今に比べると私自身に ゆとりがあり、最初で最後になるであろう時代小説の表紙絵ということで、私も張 り切っておりました。鷹匠のところに一緒に取材に行き、鷹のデッサンをしてから、 秋田杉に白い鷹を描きました。この他にも山本さんの取材にくっついていったのは、 刀剣博物館、刀の研ぎ師の工房、茶室、お点前の事、剣術の無刀流道場、二条城襖絵、 永徳展、等伯展、微力ながら、これからの小説の組み立てについてニュアンスを受け 取ったつもりでした。私ひとりでは、全く見えなかった自分の筆の力を引き出して くれた人でもあります。 山本さんの作品には、国宝や重文として知られる美術工芸の名品がよく出てきました。 その時は必ず資料を提供してくださるのです。どんなに有名になってどんなに忙しく ても謙虚で勉強熱心な方でした。
山本さんと仲良しの安部龍太郎さんの『五峰の鷹』を描くとき、ジャンク船について質問したら、快く資料を貸してくださり、出来上がった表紙にも感想をいただきました。
「北村さゆり様
安部さんの『五峰の鷹』拝受。
力のこもったいい船ですね。
波をぜんぶ描かず、空白をいかしたのも冴えてますね。
感服しました。
また、一杯やりたいですね。
よろしく。 」
ー2013.12.01ー
私が山本さんと一緒に仕事した12年間。
全部昨日の事のようです。
まだ続くと思っていたのに・・・・
あっという間に駆け抜けた太く充実した作家生活だったと思います。
山本兼一さんのご冥福を心よりお祈りいたします。
合掌。
北村さゆり拝
ー2月18日追記ー
2月15日、16日、京都でお別れしてきましたが、未だに信じたくない私はこれを聴きます。
2009年1月31日ラジオ大阪での「ぶっちゃけインタビュー」
写真は、お茶のお点前のポイントを教えてくれる山本さん(2006)。二条城の襖絵の取材をしている時の山本さん(2010)。2009年に京都蔵丘洞画廊で開いた『山本兼一著 表紙絵を描く 北村さゆり展』の展示会場より。(ツーショット写真も沢山あるはずなのに、こうゆう時に見あたらない・・・)
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